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zoom RSS 「吉田ドクトリン」はやはり創作だった? - 『昭和天皇の戦後日本』を読んで

<<   作成日時 : 2016/03/09 19:19   >>

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 以前、植村秀樹の『「戦後」と安保の六十年』(2013, 日本経済評論社)を読んだときに、植村が「吉田ドクトリン」は国際政治学者永井陽之助氏の創作ではないか、という問題提起を読んだ。
 「吉田ドクトリン」の用語説明はWikipediaでも見て頂きたいが、要は、「日本の非武装はアメリカの押しつけだ」という議論に対し、「日本は講和前に改めて、『非武装』と米軍の駐留を主体的に選び直したのだ」という議論である。
 ベストセラーとなった半藤一利氏の『昭和史 -戦後篇』でも、戦後史の常識としてかなり念入りに紹介されているし、中村隆英の『昭和史』下でも、さっと流してはいるが「吉田ドクトリン」を認める方向で記述されている。

 しかし、朝日新聞の夕刊に連載されている「憲法と九条」の連載に紹介されている当時の吉田首相と議会とのやりとりを見る限り、吉田首相が平和主義者であって日本の再軍備に否定的であるとか、軽軍備を積極的に推進していたようにはとても読めず、私は違和感を感じていた。
 ただ、戦前の吉田茂の言動を歴史書などを通じて追ってみると、かなりの植民地主義者であると共に、朝鮮や台湾に対する偏見、少なくともポジティブな感情を持っていなかったことが伺われ、彼は朝鮮戦争にアメリカの代理、あるいは手助けにかり出されることを嫌がって (朝鮮人の命を守るために日本人の血を流したくない、という発想で)、非武装を主張した可能性はあるのではないかと私は考えていた。もちろん吉田は、戦時中、親米政治家として旧軍から狙われており、旧軍や旧軍人を嫌っていたことは間違いないが。

 植村秀樹の問題提起は、正にその疑問を解こうとするものである1)。彼は、1950年代には、吉田内閣は一時的な人気を得たことはあったものの、基本的にはネガティブに評価され、さらに1954年には政権投げ出しにまで至ったことを指摘した。しかし、その評価が一転し「名宰相」扱いされる契機となったものは、高坂正尭が1964年に発表した「現実主義者の平和論」(『中央公論』1963.1号)、さらにその後永井陽之助がそれを発展させ積極的に「吉田ドクトリン」論を展開したためではなかったか、と指摘した。特に1980年代に再び永井が積極的に「吉田ドクトリン」論を展開したためそれが戦後史の常識となった、と植村は指摘する。

 植村は、確かに吉田は激しく旧軍を非難し、旧軍人を信用していなかった、しかし、日米交渉の内情が明らかになってくると、(もし吉田が「吉田ドクトリン」を積極的に推進していたら)永井のいう「弱者の恐喝」はもっと利用できたはずなのではないか、もっとやりようがあったのではないか、という疑問を呈する。

 そして、植村は「吉田ドクトリン」論は永井が日米安保反対論にも、あるいは日本の武装強化論にも対抗するロジックとして永井によって創作されたのではないか、という仮説を投げかけた (逆に言えば吉田茂は名宰相ではなかったという話だが)。

 で、豊下楢彦の『昭和天皇の戦後日本』(2015, 岩波書店)である。本書は『昭和天皇実録』を読み解いて、豊下が今まで展開してきた議論の当否を検証する書物である。いわば豊下の今までの昭和天皇研究の集大成的位置づけと言って良い。

 本書を読むと、豊下もやはり「吉田ドクトリン」を否定している。というよりもこれは「吉田ドクトリン」ではなく、敢えて言うならば「昭和天皇ドクトリン」(という言葉は豊下自身は使っていないが) とでも言うべき状況であったと指摘しているのである。

 元々豊下は吉田の行動の背後に天皇の意向があったのではないかと主張していた (豊下楢彦, 1996,『安保条約の成立』, 岩波書店)。今回『実録』の記述を見て、ほぼその推測が証明されたというのである。

豊下の議論をまとめると以下のようである。

 吉田は元々米軍の駐留継続にネガティブ。但し、東西の緊張の高まりから日本の地理的位置の戦略的価値の高まりから、どうせ日本の土地を米軍基地用に提供するというカードを切るなら、なるべくアメリカに高く売りたいと考えていた。
 そこで、国連の庇護の下、韓国−日本−ベーリング海北緯20度あたりまでを非武装中立地帯として定めるという理想案を出して交渉材料とし(169-170)、米軍が基地を貸してくれと泣き込んだら、国連を撤回し冷戦の論理に従って日米関係に位置づけた、後の日米安保条約に近いラインまで妥協することで、なるべくフリーハンドを確保し有利な条件を米国から引き出そうとしていた。

 ところがこの吉田の姿勢が昭和天皇の不興を買う。昭和天皇は、吉田茂に事実上の不信任を突きつけるとともに、米軍ではなく国連の庇護の下、日本の非武装を推進しようとするマッカーサーにも不信感を抱いていた。そしてマッカーサーの頭越しにダレスに対し、日本を代表しない輩(=吉田茂)と交渉せずに、両国の利害にかなう人物と話し合えとまで、親書を送る(149-151, 155)。結局、天皇にとっては、非武装の日本を守ってくれる米軍の駐留を自発的に日本からオファーすることが死活的に重要であったのである。

 この天皇の不興を買って、吉田茂は自発的に交渉材料を取り下げざるを得なくなる。そしてダレスは如何に日本に米軍の継続駐留を飲ませるかを心配していたのが、逆に、米軍の駐留を日本に対して恩恵として高く売ることに成功する(178)。そのロジックに昭和天皇は全面的に同意を与える(180)。
 したがって「吉田ドクトリン」で交渉をうまくやったので全くなく、むしろヘタを打ってしまい、日本が高く「米軍駐留」を買わされる結果になったということである。その裏には昭和天皇の強い意向があったということである。そして自分の交渉方針をへし折られた吉田は交渉から逃げ回ろうとするが(192)、結局渋々交渉に臨むことになったのである。

 従って、日本独立をめぐって最大の焦点は、日米安保条約などでは全くなく、米軍基地の日本駐留問題であった、ということなのである(145)。このあたりは前泊博盛他『本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」』(2013, 創元社)などにも通じる議論である。

 なお「吉田ドクトリン」という高坂正尭による「誤解」は吉田茂メモの誤り、もしくは思い違いを踏襲したためだとする(187-8)。

 そして、次に問題になるのは、なぜ昭和天皇が日本に不利な条件になると知りつつ、「昭和天皇ドクトリン」を推進しようとしたのかということだが、豊下はそれは皇統の維持が第一だったためだと指摘する。天皇は皇統を危うくするものとして二つのものを考えていた。それは軍国主義と共産主義である。そのうち軍国主義は憲法9条によって封じ込められて心配はなくなった。従って昭和天皇は憲法9条を軍国主義からの防波堤として高く評価していた(243)。残る心配は共産主義であった。そのため、天皇は共産主義から皇統を守るため、米国の駐留を日本からオファーしたという訳であった。

 その意味で豊下は、保阪正康の、昭和天皇は戦争主義者でも平和主義者でもなく皇統を守ることが一番大事という発言に強く同意してる(222)。

 このあたりの昭和天皇の姿勢は、新城道彦『朝鮮王公族−帝国日本の準皇族』(2015, 中公新書)や木村幹『朝鮮/韓国ナショナリズムと「小国」意識―朝貢国から国民国家へ』(2000, ミネルヴァ書房)に描かれた朝鮮王族の姿と重なるだろう。そしておそらく昭和天皇は、朝鮮王族が朝鮮民衆から見放される姿を他山の石にしたのではないかと憶測したくなってしまう。


1)植村秀樹, 2013,『「戦後」と安保の六十年』: 72-77 参照。



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