yohnishi's blog (韓国語 映画他)

アクセスカウンタ

zoom RSS 韓国語品詞論の大問題

<<   作成日時 : 2014/12/07 16:14   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

 先日リンクを紹介しておいた、ユ・ヒョンギョンの論文「'있다'の品詞論」『語文論総』第59号(2013, 韓国文学言語学会発行)を読んでみたがなかなか面白かった。

 結局、日本で言う存在詞である1)、있다, 없다, 계시다 の性格がよく分かっていない (というかそもそもその性格がはっきりしていないというべきか) 、ということが、先日の詠嘆語尾の付き方の揺らぎにもどうも反映しているようである。そしてこれらをどの品詞に位置づけるかということが、韓国の韓国語文法学界の中で大きな問題として残されている、ということが分かってきた。

 この論文で筆者は '있다' を形容詞として位置づけるべきだと結論づけている2)。個人的には彼女の結論に必ずしも同意しないが、その論考の過程で様々な問題点や指摘がなされており、これらがなかなか興味深いので幾つか紹介したい。

 まずそもそも韓国で出版されている辞書類の中で있다, 없다, 계시다の品詞分類は統一が取れていない、という指摘がされている。大きく分けると、自動詞として扱うもの、形容詞として扱うもの、第一義は自動詞だが、形容詞として扱われるときもあるとするもの、第一義は形容詞だが、動詞の用法もあるとするもの、の4つに分類される。ちなみに国立国語院で編纂した『標準国語大辞典』(1999)では、動詞と形容詞の2つの品詞の役割がある(韓国語でこれを「通用」と称す)としているが、動詞を第一義としている3)。

 論文の筆者が 있다, 없다, 계시다 を基本的に形容詞と位置づけるべきだと主張する根拠は、そもそも韓国語の形容詞の中に動詞的役割を持つものがあるからである。

 その第一の例は、第一義は形容詞だが動詞も「通用」する単語があるケース。その例として「크다」を挙げている。
・ 아기가 크다. (形容詞)
・ 어릴 적에 아이가 많이 큰다. (動詞)

 第二に、形容詞といえども、一部に、動詞のように主語の意志を反映しうるケースがある。つまり (推測ではなく) 意志の - 겠 と結合しうるケース。また - 려고と結合しうるケースもある。
・ 나는 이제부터 겸손하겠다.
・ 나는 이제부터 부지런하겠다.
 その一方で動詞でも - 겠 と結合しても、意志ではなく推測と取るケースもある。これは、主語が一人称かそうでないかに関係ない。
・ 나는 이 돈이면 며칠은 더 견디겠다..
・ 늙으신 어머니를 봐서라도 이번에는 꼭 견디겠다.

 第三に、形容詞は命令や勧誘(韓国語では「請誘」)形にならないのが基本だが、一部の形容詞はなり得る。
・ 행복하세요. / 건강하세요.
・ 제발 좀 조용해가. / 좀 겸손해라.
・ 우리 이제 솔직하자.
・ 나는 부지런하려고 노력했다. / 나는 친절하려고 했다.
 動詞であっても、自然物などが主語の場合、命令や勧誘形を取り得ないので、そもそも命令や勧誘形を取り得るか取り得ないかを動詞と形容詞の分類基準にすべきでない。

 第四に、一部の形容詞的動詞は、意味の差なく、形容詞的にも動詞的にも活用する。なお(×)は明らかな誤用のケース。
・ 신발이 내 발에 잘 [맞다/맞는다].
・ 내 발에 잘 [맞은(×)/맞는] 신발
・ 내 답이 아니라 네 답이 [맞다/ 맞는다].
・ 누구 답이 [맞다/맞는다]
・ 나는 꿈이 잘 [맞다/ 맞는다].
・ 언제나 잘 [맞은 / 맞는] 내 꿈.


 これらから、形容詞と動詞は必ずしも明確な線引きができないことが示されている。

 さらに、있다が動詞的に活用しうる場合は、所在(存在)を示す場合に限られ、所有を示す場合は形容詞型活用のみしかなく、また、所在の意味の場合でも、主語が「有精性」(人間や動物など精神を持つ存在こと)であり、かつ平叙文一人称主語、命令文一人称主語、勧誘文一人称複数主語に限られる。また動詞的活用をする場合でも形容詞的に活用することが可能なので、形容詞とするのが適当と結論づけている。この後者から、形容詞/動詞の「通用」と見なすのは不適切という結論のようだ。
 また、他の形容詞も動詞的な意味を持っている場合もありうるので、動詞的性格を持っていることを以て、必ずしも動詞とする必要はないと述べている。そして、있다は基本的には形容詞だが主語の性質により意図性が高まった特殊な例外的状況のみ動詞的な活用を行っていると見ることができるので、形容詞単一品詞として分類するのが妥当という主張である。

 この論文に対してコメントすると、実は形容詞と動詞の境界は結構曖昧であるという事実を示してくれていることはたいへん興味深い。但し、上の形容詞も意図性、命令、勧誘形になりうるという指摘は、すくなくとも例示されているのは - 하다 という形に限られ、それ以外の形容詞ではおそらくそのようなケースがない(?)。またこれらのケースでも、統辞論的観点からすると"겸손하는다"や"부지런하는다"という動詞的活用にはならない。それに対して、있다, 없다, 계시다は明らかに動詞的活用がある。それどころか形容詞的活用が誤りである場合がある。例えば、連体形 (韓国語では「冠形詞」)の場合、있는 것(○), 있은 것(×), 없는 것(○), 없은 것(×) 。

 意味論的に動詞、形容詞の区別をつけるべきでない(=意図性、命令性、勧誘性を帯びるか帯びないか)とするならば、統辞論(言葉の形式)的分類に徹するべきなので、やはり特殊な活用を行う있다類は、存在詞として分類するのが適切であるように思われる。但しかなり活用に揺らぎがあるため、このような議論が出てくるのであろう。また맞다をどう考えるかも課題になりそうだ。

 ただ、言語は生き物であって、文法が先にあるわけではない。日本語の「ら抜き言葉」のように「誤用」も定着してしまえば誤用とは言えなくなる。あくまで文法は現実の言語実態をより良く理解するツールであるとの観点を忘れてはならないだろう。

1) そもそも있다, 없다, 계시다を存在詞として、独立の品詞と扱うべきだという主張は、韓国の一部の論者に支持されているものの、韓国では定説になっていない。

2) なお、この論文では本用言としての있다について検討しており、補助用言としての用法は対象としていない。

3) 因みに日本・小学館、韓国・金星出版社の共同編集である小学館『朝鮮語辞典』では、存在詞としているが、韓国金星版『NEW ACE韓日辞典』では形容詞とされている。


ユ・ヒョンギョン著「있다の品詞論」『語文論集』第59号, 韓国文学言語学会 2013.12
http://webbuild.knu.ac.kr/~kpem/data/59/7.pdf

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
韓国語品詞論の大問題 yohnishi's blog (韓国語 映画他)/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる