フーコー『言葉と物』の日本語翻訳をめぐって(3)

前項より続く

『言葉と物』の日本語訳をめぐって(3)

そして、こちら

『言葉と物』渡辺、佐々木訳p. 103下- p. 104上

二次的言語(ランガージュ)によって解釈されるべき言葉 (パロール)の謎に、まだ中性的で特徴のない開いたままの可能性にすぎず、それを現実化し固定するのが言説(ディスクール)の任務である、表象の本質的言説性がおきかえられたわけだ。ところで、この言説(ディスクール)がこんどはべつの言語(ランガージュ) の対象となる場合、人々はもはや、この言説(ディスクール)が何ものかをそれと言わずに語っているかのように、それがそれ自身に限られた言語(ランガージュ)や閉じた言葉であるかのように、この言説(ディスクール)にたいして問いかけるのではない。もはや、それらの記号(シーニュ)のしたに隠された大いなる謎のことばを読みとろうというのではない。人々はただ、この言説(ディスクール)にたいして、それがいかに機能しているか、つまり、それがいかなる表象を指示しているか、いかなる要素を裁断し取りあげているか、いかにして分析と合成をおこなっているか、いかなる置換の仕組みによってみずからの表象的役割を確保しているかを問うだけである。<註釈> が<批評>に席をゆずったのだ。

これも、分かったような、分からないような訳文である。ただ、今までの流れが分かれば、ある程度こんなことを言いたそうだということはわかるが、それにしても、である。ちなみに原文はこちら。

"Les mots et les choses"p. 93-4

A l’énigme d’une parole qu’un second langage doit interpréter s’est substituée la discursivité essentielle de la représentation : possibilité ouverte, encore neutre et indifférente, mais que les discours aura pour tâche d’accomplir et de fixer. Or, quand ce discours devient à son tour objet de langage, on ne l’interroge pas comme s’il disait quelque chose sans le dire, comme s’il était un langage retenu sur lui-même et une parole close; on ne cherche plus à faire lever le grand propos énigmatique qui est caché sous ses signes; on lui demande comment il fonctionne : quelles représentations il désigne, quels éléments il découpe et prélève, comment il analyse et compose, quel jeu de substitutions lui permet d’assurer son rôle de représentation. Le commentaire a fait place à la critique.

これも訳文を逐次検討してみよう

渡辺、佐々木訳
「二次的言語(ランガージュ)によって解釈されるべき言葉 (パロール)の謎に、まだ中性的で特徴のない開いたままの可能性にすぎず、それを現実化し固定するのが言説(ディスクール)の任務である、表象の本質的言説性がおきかえられたわけだ」
    ↓
筆者仮訳
「二次的な言葉(un second langage)によって解釈されるべき語り(une parole)の謎は、表象(la représentation)の本質的論理性にとって代わられた。それは、[誰にでも] オープンで、さらに中立、不偏でもありうるが、しかし、その言説 (les discours) は、完結し[意味や解釈が]固定するものとされる」


渡辺、佐々木訳
「ところで、この言説(ディスクール)がこんどはべつの言語(ランガージュ) の対象となる場合、人々はもはや、この言説(ディスクール)が何ものかをそれと言わずに語っているかのように、それがそれ自身に限られた言語(ランガージュ)や閉じた言葉であるかのように、この言説(ディスクール)にたいして問いかけるのではない」
    ↓

筆者仮訳
「ところで、言葉に代わって (de langage) 言説 (ce discours) がこんどは(à son tour)対象となる場合は、もはや、何も問われない。あたかも言説が語ることなく[自ら]語ったり、言説それ自体に言葉(un langage)が封じ込められていて(retunu)、解釈余地のない(close)語りであるかのように」


渡辺、佐々木訳
「もはや、それらの記号(シーニュ)のしたに隠された大いなる謎のことばを読みとろうというのではない」
    ↓
これはOK

渡辺、佐々木訳
「人々はただ、この言説(ディスクール)にたいして、それがいかに機能しているか、つまり、それがいかなる表象を指示しているか、いかなる要素を裁断し取りあげているか、いかにして分析と合成をおこなっているか、いかなる置換の仕組みによってみずからの表象的役割を確保しているかを問うだけである。<註釈> が<批評>に席をゆずったのだ。」
    ↓
筆者仮訳
「人々はただ、この言説に対し、それがどう機能しているかを問うのみである。つまり、言説が、どの表象を示しているか、どの要素を切り分け取り出しているのか、どのように分析し組み立てているのか、どのような代替機能が言説の表象機能を保証しているのかが問われるのである。<註釈> が<批評>に席をゆずったのだ」

要は、このセクションは、ルネサンス以前は、言説/ディスクールが、黙示録的に読まれたのに対し(謎の啓示をいかに掘り起こし、読み取れるかが問題)、古典主義の時代は、言説/ディスクールに含まれている言葉/ランガージュ(=意味内容)は、誰にとっても開かれていて論理的に明快であって、同じように読み取れるはずという前提に変わったということである。だから、仮に言説/ディスクール自体が問題にされるとすれば、もはや言説/ディスクールから何を読み取るかということが問題とされるのではない。例えば、明快に意味が読み取れないとしたら、それは言説/ディスクールの書き方やそれ自体が持つ論理性、機能性に問題があるという話になるのであって(つまり書き方が悪いという話)、だからこそ、注釈が批評に席を譲る、という話になるのである。ルネサンス以前は、訳のわからんことを書いていても、皆がそこに深遠な真理があるのではないか、と一所懸命注釈をつけながら読んでくれたが (もっとも、当時は誰でもが文書を公表すること publishing ができる時代ではなかったと思うが)、古典主義の時代になると、お前は何を書いておるのか、書き方が悪い、とたたかれる(批評される)時代になったということである。

で、原文の4行目、 « Or, quand ce discours devient à son tour objet de langage, »を、「ところで、この言説(ディスクール)がこんどはべつの言語(ランガージュ) の対象となる場合、」と訳しているのは、完全に誤訳。「langageからdiscoursに目を向けてみると (注目の対象を切り替えてみると)」というような意味。訳者は de を英語のofの意味で解釈しているが、この場合はfromの意味。もしofの意味なら、この場合はdu langageになるはず。さらに言えば「べつの言語(ランガージュ) の対象」だったら de l’autre langageになるはず。それがdeを使っているということは漠然としたlangage一般ということだから、何か特定の(別の)langageという話ではない。

 まぁ、そもそもlangageに「言語」という訳語を充てているところからして敗因があるような… 。私の仮訳ではlangageに「言葉」paroleに「語り」という訳語を充ててみたが、私の読解では、langageとparoleは、フーコーの使い方の中では、意味的に近い。ただ、paroleは意味的にぶれのある言葉ないし語る行為なのに対し、langageは一定の意味を持つ言葉を指しているのだと思う。だから、この引用の冒頭にl’énigme d’une paroleとあるのは、これはl’énigme d’un discoursでもよかったと思うが、ただどう解釈するかでブレがあるのでparoleを使ったのだと思う。あるいはdiscoursとsigle (注釈記号) を併せて考えたいのでparoleにしたのだろう。なので、原文の引用部冒頭3行はlangageに注目した議論であった。つまり、discoursからどうlangageを解釈して引き出すかの歴史的変化に関する議論だった。そのあとに続く部分は、langageからdiscoursに注目の焦点を移し、discoursの位置づけの歴史的変化について論じている。つまりルネサンス以前は、discoursの中の大いなる謎が問題だったのが、古典主義時代以降は、discoursの中に意味(langage)が封じ込められていると考えられるようになった、という話なのである。
 たぶん、訳者は、まずフーコーにおけるlangageの意味付けの把握に失敗した上に、 langage, discours, parole, représentationの4者の関係が、訳が分からなくなって、上記のような誤訳を犯してしまったのではないだろうか。

しかし、こうしてみると本書の邦訳はフーコー理解を促すどころか、むしろ理解を阻む壁になっているのではないかという疑いを禁じ得ない。

いや、それとも、これはルネサンス時代に退却せよとの訳者たちの高邁な理想の実践なのか?


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