理想主義への不信...『コドモのコドモ』と『パリ20区、僕たちのクラス』の共通点
萩生田宏治監督の2008年公開映画『コドモのコドモ』。原作はさそうあきらのマンガ。様々な問題提起を含んだ作品である。
『コドモのコドモ』あらすじ goo映画
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD13069/story.html
原作マンガを読んでいないのであくまでも映画を見ての講評だが、先日岩波ホールで日本でも公開されたローラン・カンテ監督『パリ20区、僕たちのクラス』との共通点に触れたくなる。
それは理想主義(あるいは革新派)への懐疑。『パリ20区...』では移民の子はダメだと決めつける保守派に対抗する理想主義の教師としてフランソワが登場する。それに対して『コドモのコドモ』で理想主義を掲げる教師として麻生久美子演ずる、東京での教育経験のある八木先生が描かれる。いずれも保守派の偏見に対して子どもたちに良かれと理想主義的教育を実践しようとする点、そしてその理念が現実の子どもたちの前で空回りしてしまうという点は同じである。
但し、『パリ20区...』は原作者のフランソワ・ペゴドー自身による反省的悔悟として描かれるのに対し、『コドモのコドモ』の八木先生はあくまで傍観者的に描かれる。所詮現実のコドモを見ていない理想主義として厳しく断罪される。
そもそも主人公の春菜自身が近代主義的な理想主義に対抗する存在として設定されている。春菜の八木先生や学級委員長である美香に対する「みんな死ねだし」という反発は、ある種、春菜を土着主義的な価値観のシンボルとして設定されているように思われる。それは、近代的理想主義者でありかつよそ者(東京)的価値観を身につけた八木先生に対しても、そして、単なる事なかれ保守主義者(彼らもまた学校的近代的価値観に乗っているという意味では同じ)に対しても同時に反発を示す。
その、土着主義のシンボルである春菜の家庭は3世代同居の伝統的大家族として設定される。そして春菜の出産をもっともも自然に受け止めたのはそのお祖父さんであったということも、非常に象徴的。つまり近代的価値観では「非行」としてしか規定されない春菜の出産をもっとも柔軟に受け止める存在として、その土地に根ざした伝統・土着的存在が設定されている。
春菜を取り巻く友達は両義的な存在だ。初めは春菜の周囲へのやみくもな反抗に同調していた二人の親友も、春菜が妊娠し自分の世界(土着的世界)にこもっていくと、近代的価値観から逃れきれない二人は距離を起きはじめる。だが、春菜の状態がクライマックスに向かって進み始めた時、土着的存在である春菜の立場に巻き込まれ応援する存在になる。産婦人科という父親の職業を嫌がっていた(それは土着性を嫌悪する近代的価値観につながる)生田目君や、先生のペットであろうとした学級委員長の美香もそこに巻き込まれていき、大人的な近代価値観に対抗する土着コドモコミュニティを形成していくことになる。それは春菜の大家族という土着コミュニティに引き継がれていくことになる。
その一方でよく分からない存在がヒロユキだ。ヒロユキは春菜の出産が発覚したことから一家で東京に越してしまう。従って転勤族であることは明らかであり、ヒロユキがコドモを作ってしまったことに対して、引っ越しする程容認できない近代的価値観を持った一家であることは明らかなのだが、土着的存在である春菜がなぜ、転勤族の息子であったヒロユキとだけ心を通い合わせられたのかがよく分からない。
さらに言えば、春菜の家族と子どもたちだけが土着的価値観のアジールとして機能しているものの、春菜の家族と地域社会・コミュニティとの関わりもすっぽり抜け落ちている。春菜の家族だけが、近代社会の中にぽつんと残された奇蹟のような土着的社会のオアシスとして残されている... というのも説得力がない話だ。
コドモがコドモを産んでしまうという事態を、近代社会は生命の自然な再生産として受け止める力を持たず、「非行」として排除してしまうだろう、という指摘はおそらく正しい。そしてそのような近代社会だからこそ、そこでの子育てが息苦しくなるだろう、ということも言えるだろう。だが土着的価値観やコミュニティをどうやって回復させるのかという方向に関しては本作品を見ても十分説得力を持って展開されているとは思えない。ただ奇蹟のように春菜の家族がぽっと存在するばかりなのである。
事実、ロケ現場となった能代市では本作品の撮影を巡ってすったもんだがあったようだ。田舎だから土着的価値観が残っている、コミュニティのつながりが可能であるとは言えない状況を正に象徴するような事件である。
「小学5年で出産」教育上けしからん 映画ロケ地能代市ですったもんだ J-CASTニュース2007.12.14
http://news.livedoor.com/article/detail/3430494/
『コドモのコドモ』あらすじ goo映画
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD13069/story.html
原作マンガを読んでいないのであくまでも映画を見ての講評だが、先日岩波ホールで日本でも公開されたローラン・カンテ監督『パリ20区、僕たちのクラス』との共通点に触れたくなる。
それは理想主義(あるいは革新派)への懐疑。『パリ20区...』では移民の子はダメだと決めつける保守派に対抗する理想主義の教師としてフランソワが登場する。それに対して『コドモのコドモ』で理想主義を掲げる教師として麻生久美子演ずる、東京での教育経験のある八木先生が描かれる。いずれも保守派の偏見に対して子どもたちに良かれと理想主義的教育を実践しようとする点、そしてその理念が現実の子どもたちの前で空回りしてしまうという点は同じである。
但し、『パリ20区...』は原作者のフランソワ・ペゴドー自身による反省的悔悟として描かれるのに対し、『コドモのコドモ』の八木先生はあくまで傍観者的に描かれる。所詮現実のコドモを見ていない理想主義として厳しく断罪される。
そもそも主人公の春菜自身が近代主義的な理想主義に対抗する存在として設定されている。春菜の八木先生や学級委員長である美香に対する「みんな死ねだし」という反発は、ある種、春菜を土着主義的な価値観のシンボルとして設定されているように思われる。それは、近代的理想主義者でありかつよそ者(東京)的価値観を身につけた八木先生に対しても、そして、単なる事なかれ保守主義者(彼らもまた学校的近代的価値観に乗っているという意味では同じ)に対しても同時に反発を示す。
その、土着主義のシンボルである春菜の家庭は3世代同居の伝統的大家族として設定される。そして春菜の出産をもっともも自然に受け止めたのはそのお祖父さんであったということも、非常に象徴的。つまり近代的価値観では「非行」としてしか規定されない春菜の出産をもっとも柔軟に受け止める存在として、その土地に根ざした伝統・土着的存在が設定されている。
春菜を取り巻く友達は両義的な存在だ。初めは春菜の周囲へのやみくもな反抗に同調していた二人の親友も、春菜が妊娠し自分の世界(土着的世界)にこもっていくと、近代的価値観から逃れきれない二人は距離を起きはじめる。だが、春菜の状態がクライマックスに向かって進み始めた時、土着的存在である春菜の立場に巻き込まれ応援する存在になる。産婦人科という父親の職業を嫌がっていた(それは土着性を嫌悪する近代的価値観につながる)生田目君や、先生のペットであろうとした学級委員長の美香もそこに巻き込まれていき、大人的な近代価値観に対抗する土着コドモコミュニティを形成していくことになる。それは春菜の大家族という土着コミュニティに引き継がれていくことになる。
その一方でよく分からない存在がヒロユキだ。ヒロユキは春菜の出産が発覚したことから一家で東京に越してしまう。従って転勤族であることは明らかであり、ヒロユキがコドモを作ってしまったことに対して、引っ越しする程容認できない近代的価値観を持った一家であることは明らかなのだが、土着的存在である春菜がなぜ、転勤族の息子であったヒロユキとだけ心を通い合わせられたのかがよく分からない。
さらに言えば、春菜の家族と子どもたちだけが土着的価値観のアジールとして機能しているものの、春菜の家族と地域社会・コミュニティとの関わりもすっぽり抜け落ちている。春菜の家族だけが、近代社会の中にぽつんと残された奇蹟のような土着的社会のオアシスとして残されている... というのも説得力がない話だ。
コドモがコドモを産んでしまうという事態を、近代社会は生命の自然な再生産として受け止める力を持たず、「非行」として排除してしまうだろう、という指摘はおそらく正しい。そしてそのような近代社会だからこそ、そこでの子育てが息苦しくなるだろう、ということも言えるだろう。だが土着的価値観やコミュニティをどうやって回復させるのかという方向に関しては本作品を見ても十分説得力を持って展開されているとは思えない。ただ奇蹟のように春菜の家族がぽっと存在するばかりなのである。
事実、ロケ現場となった能代市では本作品の撮影を巡ってすったもんだがあったようだ。田舎だから土着的価値観が残っている、コミュニティのつながりが可能であるとは言えない状況を正に象徴するような事件である。
「小学5年で出産」教育上けしからん 映画ロケ地能代市ですったもんだ J-CASTニュース2007.12.14
http://news.livedoor.com/article/detail/3430494/
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