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zoom RSS 昭和初期の生活感を垣間見られる小津安二郎監督『一人息子』

<<   作成日時 : 2017/02/05 12:37   >>

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小津安二郎監督『一人息子』
 小津安二郎の初めてのトーキー作品で、1936年9月15日公開。

あらすじはこちら
allcinema 『一人息子』
http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=132023

 最初の場面は1923年の信州。主人公の母親野々村つね(飯田蝶子)が紡績工場で働いている。到底息子の良助(少年時代: 葉山正雄)を中学に進学させることができない家計状況であったが、息子は担任の大久保先生(笠智衆)にうそを言い、中学に進学すると告げ、先生が母親に会いに来るところから始まる。

 母一人子一人のなか、母親は相当無理を重ね、息子を(おそらく)東京の大学にまで進学させる。

 そして1936年、東京で公務員になったという息子(日守信一)を訪ねに行ったところ、その結果は経済的には必ずしも好ましいことになってはいなかったというお話。

 本作品の貴重なところは、やはり当時のリアルタイムの生活感覚を垣間見せてくれるところではないだろうか。当時の日本は非常に社会格差が激しく、所得再分配政策もほとんど皆無に近かった。従って何が平均的な暮らしかということを言うことは非常に難しい。
 その中で分かることは、地方から見た東京がいかに魅力的な土地であるかということ。息子もそうであるし、息子の担任だった大久保先生も、東京に出て勉強をしなおしたいと口走る。地方と東京の生活、文化水準を格差の大きさを物語る場面だ。

 だが、その様に希望を持って上京をした人たちは、必ずしもそこで望んでいたような生活ができていない。息子も余裕のある生活ができず、上京した大久保先生に至っては、学問で志を立てるどころか、全く学を生かせずとんかつ屋になっている始末。まだ夜学(おそらく夜間中学)で数学を教えている息子のほうがいささか学を活かした生活ができているだけまだましである。東京が激しい競争社会であり、その中で地方から上京してきた人たちはその競争に生き残るのが大変厳しいという現実である。

 因みに、当時東京のサラリーマンの標準的月収は、中学卒のサラリーマンで70円ぐらい。そして大卒のサラリーマンのあこがれの目標は月収100円取りたい、というあたりだったという。一方、家政婦で月収10円程度だったという1)。当時、東京近郊、川崎あたりの一戸建て新築が3600-3700円ぐらいだったというから、当時の1円は今でいえば7000円〜10000円程度ではなかったろうか。当時のサラリーマンは、今のサラリーマンよりはるかに収入面ではエリートだったのである。

 この中で、息子の良助は母が上京するというので同僚から5円ずつ10円ほど借りている。また映画の中で最後に、中等学校教員の検定でも取るかな、と言っているので、彼は教員免許を持っていないことが推定される。これから推定すると息子の月収は、おそらく20円台、25円程度ではないだろうか。今でいえば18万円〜25万円程度というあたりか。それで子持ちの三人家族を養っていたということである。おそらく彼は正規の免許のない代用教員なのだろう。これが免許のある正規の教員なら月収50〜60円程度はもらえていたのではないか。
 良助が同僚にいきなり、10円貸してくださいと言うのはずいぶん無茶な気がするが、仮に同僚が正規教員で、良助が代用教員だとすると、無理のない設定ではある。とはいえ、ひょっとすると10円持ち歩いている、というのは今の感覚から言うと、かなり大金を持ち歩いているという感じがする。この辺りはやはりキャッシュカードやクレジットカードがない時代だったからかもしれない。それだけスリなどが横行していたのも当然と言えよう。

 ただ1923年に12歳だった良助が大学を出たとすると、大学卒業の年はその10-11年後なので、1933か34年である。その頃であれば高橋リフレ政策のおかげで日本の景気が大恐慌後の急回復を遂げていたころである筈である。しかも映画が公開された翌年の1937年には、日本の都市部においては、昭和戦前期最高の好景気を享受していた時代なので、良助が就職するころにはそんなに就職に苦労しなかったはずである。この辺りは小津自身が大恐慌期に製作し、流行語にもなった『大学は出たけれど』の設定を引きずってしまったともいえる。
 一方、大久保先生の設定に関しては、上京して大学に入り直したとしても、卒業時が恐慌にかかっていたとしたら無理がない設定である。

 また、良助が徴兵に掛かってないのでは、という疑問に関しては、1937年、日中戦争突入前には、むしろ徴兵猶予になるケースが多く、甲種合格にならない限り入営することはほとんどなかったことを指摘しておこう2)。ただ良助の世代は戦争の深化とともに、その5,6年後、30前後で年を食ってから徴兵され、大変な辛酸を味わされた世代であったということは指摘しておこう。

 また、やはり当時の東京は隣近所同士の助け合いが非常に密であったということに驚かされる。お金がなくても、地縁、今風に言えば、ソーシャル・キャピタルがやはり地域の財産であったのだ。ただ、戦時下で国民の戦争動員がソーシャル・キャピタルの動員によって行われたということが、戦後都市部のソーシャル・キャピタル弱体化に大きな影響を与えたであろう。

 その一方で、東京に住む良助が母親にも言わず結婚し、子どもまでもうけている設定にも驚かされる。都市では血縁より地縁という観念が強かったのだろうか。それとも小津の個人主義的な指向だったのか。ひょっとすると、江戸以来、都市では血縁はさほど重視されていなかったのかもしれない。

 それと、もう一点、小津安二郎が映画の中で、元号ではなく西暦を使っていたことが非常に興味深かった。


1)湯沢雍彦, 2011,『昭和前期の家族問題: 一九二六―四五、格差・病気・戦争と闘った人びと』, ミネルヴァ書房 参照

2)一ノ瀬俊也, 2009,『皇軍兵士の日常生活』, 講談社現代新書 参照

※戦前期の夜間学校については、例えば以下の文献参照
佐々木亨, 1991,「大学入試の歴史第31回 : 夜学の歴史」
http://jairo.nii.ac.jp/0002/00014851 (JAIROへのリンク)










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