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zoom RSS 脚本家笠原和夫の反戦思想は那辺に... - 舛田利雄監督『大日本帝国』

<<   作成日時 : 2017/02/26 17:20   >>

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 1982年東映製作の作品。日本の太平洋戦争突入前後から敗戦後までを描く作品で、脚本は『仁義なき戦い』の笠原和夫(1927-2002)。実は、本作品を見るきっかけは笠原和夫のインタビュー集『映画脚本家笠原和夫 昭和の劇』(太田出版, 2002)に言及されていたからであった。この本での笠原の発言では、自分は反戦映画のつもりで脚本を書いたのに封切りをされたら、大日本帝国を賛美する右翼映画だと散々けなされて不本意だという趣旨の話をしていた。で、どのような映画だったのであろうと見てみた次第。
 ちなみに笠原はこう述べている。「それで試写会に、黛敏郎という右翼の作曲家がきましてね、これを見て『これは非常に巧みに作られた左翼映画だ』と言ったんですよ。その後、山本薩夫という左翼の映画監督が見に来ましてね、『これは非常にうまく作られた右翼映画だ』と」(p. 455)

本作品のあらすじはこちら
Movie Walkerサイト
http://movie.walkerplus.com/mv17031/

 映画を通して笠原和夫の歴史観を検討してみると、まず気になるのは、日本の開戦を決意させたと言われるハル・ノートは、アメリカが日本を開戦に追い込むための謀略である、という見解を取っていること。映画の中ではハル・ノートは日本が日露戦争以前の状態に戻せと要求したので(とはいえ、日本は敗戦によって日露戦争以前どころか日清戦争以前の状態に戻されたのであるが)、日本が開戦を決意するのも無理はないとの解釈を取っていた。
 ただ、この点は加藤陽子の『戦争まで』(朝日出版社, 2016年)を読むと話がだいぶ違う。加藤陽子はハル・ノートがアメリカが日本を戦争に追い込むための謀略であるという話は謀略史観として一蹴している(加藤, 2016: 316)。加藤は次のように指摘している。まず日本はアメリカの外交暗号電報の90%近くを知っていたので、ほぼアメリカの腹の内は読めていた(加藤, 2016: 313)。そして、アメリカにはハル、ローズベルトを中心として日本との和平を追求しようという考え方があったが、その一方で対日強硬派との内部対立も存在していた(同: 320-6)。また、日本側も三国同盟が発動され日本が対米開戦に踏み切るようなことは憂慮していたとも指摘している(同: 326-8)。そして、ハル・ノートに先立ってアメリカ側から出された、かなり日本の立場に配慮した「日米諒解案」も、ハルの個人的なノートなのではなく、米政府が了解していないはずがないと指摘している(同: 355)。そしてハル・ノートに先立つ日米諒解案は、共産主義に対抗するためにある程度東洋のモンロー主義を認め、日本を尊重する内容であったと加藤は指摘する(同: 354-7)。
 ただ、アメリカの日本に対する融和的態度を大きく変化させた要因は、1941年7月の日本の仏領インドシナへ南部の進駐であった(同: 360-1)。そして日本側はそもそもアメリカが、日本が仏印南部に進出したら激怒するだろうという情勢を全く読めていなかったのではないかと加藤は指摘する(366-370)。さらに三国同盟をまとめた松岡外相が「日米諒解案」によるアメリカとの和解に消極的で対米交渉がなかなか進まず、日本側が松岡の更迭に何とか成功したのが1941年の7月だった(388)。ようやく日米交渉に前向きな環境ができたタイミングで日本軍が南部仏印に進駐したので、アメリカ側からこれは日本軍による謀略だという意見が出て、日本との妥協交渉をやっていたハルのメンツを完全につぶすことになってしまった(同: 390)。そのうえ野村駐米大使が、1941年9月日本政府が米政府との妥協を図っていることをアメリカのメディアに口を滑らしてしまったがゆえに、日本国内の国家主義団体や参謀本部の猛反発を買い身動きが取れなくなってしまった(393-5, 398)。この遠因として、当時の日本人大衆が満州事変が関東軍が起こしたという謀略であるというの真相を知らされず、中国側が起こしたものだと信じていた=満州国の成立は日本による侵略ではない(言わば満州の人々を助けるための義挙だ、ということになろうか?)と思っていたため、満州国に対して批判的な欧米に対し当然無条件に反米英にならざるを得なかったということを指摘している(同: 402-3)。したがって米英への妥協と戦争で揺れる政府中央部の苦悩など大衆は何も知らず、政府も米英への妥協を国民に納得させる手立てを失っていたということである。
 さらに加藤陽子はハル・ノートはアメリカが日本に開戦を思いとどまらせるために出したものであったが(絶望から開戦する国はない、というアメリカ側の思い込み)、それが完全に裏目に出てしまったことも指摘している(同: 410)。
 また加藤は、日本は(欧米諸国とは異なり)被動者的立場を好むという指摘もしている(同: 370-3)。これも考え合わせると、アメリカ側が日本に無理難題を突き付けて日本が開戦してきたら「仕方なく」応じる形にした、という「陰謀論」はいかにも日本人好みの被動論的ストーリーである。アメリカが最初から日本と戦うつもりであれば、わざわざそのような被動論的お膳立てはせず、ストレートに日本はけしからんから懲罰するという形で踏み切ったはずだとも言えよう。

 これらの加藤陽子の指摘が正しいとすれば笠原和夫の開戦観は陰謀史観である、という話になる。ただ、問題はなぜ反戦を唱えているという彼が陰謀史観に「加担」するのかということになる。
 一つの可能性としては、笠原自身が戦争に批判的であったとしても、やはり戦前・戦中の教育を受けていた笠原自身にとって「従米」的発想は非常に抵抗があったのではないか、ということである。日本が誤っていた、間違っていたことは確かであっても、だからといって欧米が無条件に正しいという発想には抵抗があったのではないか。やはりアメリカのある程度の横暴はやはり否定できないのではないかと考えていたのではないか。
 ただ、だからと言って、笠原は日本が正しかったなどとは言わない。シンガポール攻略やフィリピン戦線の描き方から、日本が現地の人々から恨みを買うことをやったということに十分自覚的である。ただ一方で戦争は「片方が正義の人間たちだけで、もう片方が虐殺をやった悪い人間たちだけだったなんていうことはありえない」と言い「アジアの人間に謝る必要は毛頭ないです」と言っている(笠原他, 2002: 471)。また日本人戦死者に対しても「結局、突き詰めて行けば犬死であろうと何であろうとね、戦争に駆り出された人間が無力だったんですね。要するに抵抗というものをしなかった。特に日本人の場合、これまた天皇制によるものなんだけど、明治以降、お上に対して抵抗するという努力をしていないんですよ」(同: 472)と述べ、国家の命令に唯々諾々として従った日本人の自己責任を指摘する。だからこその、つまり正義の戦争、正当防衛の戦争などはありえないというリアリティに基づいた、絶対反戦思想である。
 このような発想は、先日のトランプ訪問に見るように、ひたすら無様なまでに従米を貫く一方、戦前の日本の戦争を正当化しようとし、さらに「正義の戦争」がありうるという立場から集団的自衛権も認めようとする安倍首相とは180度位相が異なる戦争観と言えよう。

 もう一つの可能性としては、笠原は間違いなく多くの人々の取材に基づいて脚本を書いているはずであり、笠原が取材した多くの当事者が、自己正当化のためか、あるいはそれともその様に実際に信じていたのかは分からないが、やはりそのような開戦観を笠原に向かって開陳したのではないかということである。
 仮に笠原が取材した証言が自己正当化からではなかったと仮定すると、やはり多くの関係者がそのように信じていたのだということになる。そうだとするとその理由はおそらく、これは加藤も笠原も指摘しているが、日本の組織における極端なセクショナリズムであろう。おそらく加藤が論じていたような英米との関係を巡る状況認識は、日本の極めてごくわずかの関係者にしか共有されていなかったのではないか。日本側がアメリカの外交電文の大半を解読していたにしても、ではアメリカが日本と妥協する意思を持っていたという事実は、政権中枢部でも充分共有されていなかったのではないか。おそらく御前会議のメンバーでさえ、ごくわずかな人間しかそのような認識を共有していなかったのではないか。加藤は既に述べたように軍の軍令部と参謀本部の間で対立があったと指摘しているが、そもそも参謀本部は英米の状況についてほとんど何も知らなかったのではないか。笠原も東条英機は海軍のミッドウェイ敗戦を後々まで知らなかったと述べている(笠原他, 2002: 484-5)。そのようなセクショナリズムによる情報非共有がこのような開戦にまつわる「陰謀史観」の関係者の間における跋扈を許した可能性は高い。それを笠原が受け継いだのではないだろうか。

 そして、笠原の反戦表現 -これは笠原の『昭和の劇』でも紹介されているが- は、基本的には犬死させられた兵からの反戦表現である。例えば中国人やアジア人を「アングロサクソンから解放するために戦って」いたはずが、そうでないのではないのかという疑問、B,C級戦犯として処刑される中尉が「天皇陛下お先に参ります」というセリフ、あるいは兵士の「私らは天皇陛下の御楯となれと命じられて戦ってきたんです。そう命じた方が、われわれを見捨ててアメリカと手を結ぶなどということは絶対にありえません」というセリフ。これらは何のために死地に赴かされたか分からなくなった兵からの恨みつらみであり、戦後状況への皮肉でもある。
 ただ、それらの恨みつらみは戦後、敗残兵が恨みつらみを述べるのはみっともないし、理解もされないという美意識によって、あまり語られることも、理解されることもなかった上に、日本会議や靖国神社主導による「戦死した兵士たちは、戦後の繁栄を築く礎となった英霊である」という「持ち上げ」によって、このような敗残兵の置かれた位相に対する理解は今日極めて困難であろう。ただ、首相がしっぽを振ってトランプのご機嫌伺いをするような国を作るために彼らは死んだのではなかったということは、少なくとも言っておきたい。もちろん、戦前の日本は間違っており、彼らの死を犬死とする国づくりが必要なのだと考えることは一つの見識であろう。しかし少なくとも、彼らの死を犬死とする国づくりを行っているにもかかわらず、そうではないかのような誤魔化しは許してはならないと思う。

 最後に、どうもこの作品、例えば1950年代、60年代に作られた作品に比べて何となく歴史的リアリティに欠けるというか、ちゃちというか、薄っぺらな感じがぬぐえない。それはバブル時代を迎えた1980年代的感性のせいか、とも思えるのだが、笠原の『昭和の劇』を見ると、一つは舛田利雄の資質にもあるようだ。笠原はこう述べている。「僕も曲解というか誤解していたんですけどね、舛さんはもっと写実的なものが撮れると思ってたんだけど、どうも『大日本帝国』あたりから首をかしげてきて。写実的描写ができないんですね。やっぱり、それまでリアリズムの映画を撮った経験がないですからね。それに勉強もしていないし。ただ脚本だけは読んで、他には何の資料も読んでないからイメージが湧かない。だから、時代劇みたいなものになっちゃってね。本当はもっとすさまじいホンだったんだけど」(p. 466)。「要するに、日本映画では画の上でもって戦場の臨場感というものが出しきれないでしょ。だから、せめてそういうところから描くことによって観客に臨場感を持たせようとしたわけだよ。ところが舛さんはほとんどカットして撮った。頭にきたよー! そう言う理屈が舛さんにはわからないんだな。あれは試写を見て頭を抱えたよ」(p. 476)。


『大日本帝国』
監督: 舛田利雄
1982年 日本映画 カラー 1:2.35 180分









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