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zoom RSS 呉鳳伝説と台湾総督府

<<   作成日時 : 2016/05/21 18:03   >>

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画像 今回も駱芬美 著, 2014,『被混淆的臺灣史 - 1861−1949之史實不等於事實』, 時報出版からの内容紹介である。

 呉鳳とは18世紀台湾の人で、漢族と原住民の融和を図ったとされる人物であり、その死後大きな廟が建てられ、現在でも神のように崇められている。現在も嘉義県中埔郷にある呉鳳廟には、彼のプロフィールとして次のように紹介されているという。

 呉鳳は1699年生まれで、本籍は福建省平和県。清朝康煕年間に、父母と共に台湾に移住し、諸羅県(現在の嘉義市)で暮らす。父親が阿里山原住民の病を治したり、交易を行っていたため、原住民の言葉を習得し、原住民と漢人の衝突の際は和解の仲介などを行っていた。あるとき、李という名の通事 (原住民と漢族との間の通訳や交渉を行う役人) が常日頃原住民を抑圧して田畑や女性を奪って問題を起こしていたため、諸羅県の県長がその通事を更迭し、当時24歳だった呉鳳を新任通事として任命した。そのため原住民から大変歓迎された。
 当時原住民は出草 (首刈り) の風習があり、毎年秋の収穫時になると出草を行って、人の首を祖先に供えていた。そこで通事は原住民と首を刈るのは漢人の男と女各1名に限定するよう取り決めを行ったのだが、原住民はその約束を守らず、頻繁に漢人を殺害していた。
 そこで、呉鳳は一大決心をして、原住民と話し合い、毎年首を刈るのではなく、一旦刈った首を保存して、それを毎年お祭りに供し、これ以上漢人を殺さないよう説得し、48年間その約束を守らせた。

 呉鳳が71歳の時、山地で伝染病が蔓延、そのため年若い原住民たちは再度出草を認めるよう要求した。呉鳳は習俗を改めさせるのは容易でないことを痛感し、自己犠牲を決意して、原住民たちに、山を下りて赤い服に赤いずきんを着けた漢人を見たらそのものを殺してお祭りに供えても良いと原住民に申し渡した。
 原住民がその言葉に従って、赤い服の男を殺すと、その男は呉鳳本人であった。

 原住民はそのことを知ると、呉鳳のたたりを怖れて、阿里山の頭目たち48人が集まって、再び出草を行わないことを決意、そして呉鳳をまつる祭壇をつくって、子々孫々出草という悪習を行わないよう伝えることにしたという。

 だが呉鳳死後、200年間で果たして本当に呉鳳という人物は実在したのか、実在したとしても、この物語は「捏造」だったり「神化」されたのではないかという疑問が度々出されてきた。

 ただ、原住民の部落に厄災が降ったときに、これは呉鳳の祟りだという話となり、再び呉鳳が厄災を与えないように祭られたのは事実であり、1820年にはその呉鳳信仰が漢人社会にも広まって、呉鳳廟が建立されたのであった。

 で、実はこの呉鳳神話が完成するのは日本植民地時代であった。1900年、台湾総督府は阿里山の森林資源に気付き、資源調査を実施し、原住民と接触を開始する。その4年後、台湾総督府長官後藤新平が阿里山を視察したとき、この地域ではなぜか他の地域とは異なり、原住民に日本人が襲われることがないことに気づき、非常におかしいと思い、地元民に尋ねたところ、呉鳳の話を聞き、後藤新平も呉鳳廟を参拝したという。そして同行した学者伊能嘉矩が呉鳳の事績を調査したが、その時はそれで終わった。
 しかし1906年嘉義大地震のため呉鳳廟が倒壊した際、後藤新平の後押しで、嘉義県知事、津田義一が呉鳳廟の再建をすすめ、呉鳳を讃える碑文も立てる。津田義一は「殺身成仁した通事呉鳳」として宣揚し、「義人」呉鳳像を完成させ、これを以て原住民の開化に資することにした。
 1913年3月19日には再建された呉鳳廟の落成式典が盛大に催され、当時「理番五ヶ年計画」を実施中だった第5代台湾総督佐久間左馬太が直々に主催し、山地原住民の首刈り習俗を改めさせることを図った。
 この呉鳳伝説は「殺身成仁」「大公無私」という皇国精神に合致したため、呉鳳伝説は日本の教科書にも取り入れられた。また、東石地区の日本警察、森川巡査は原住民との良好な関係を保って有名になったが、彼は日本時代版呉鳳と称された。
 1930年には霧社事件が起こり、その反動として呉鳳の功績はますます強調されることとなり、呉鳳廟も拡張され、呉鳳の影響の強化が当局によって図られた。

 ところが、1937年に日中戦争が勃発すると事態は一転、台湾人の漢人意識を強化しかねないと、急遽呉鳳廟の礼拝は禁止され、呉鳳廟の騎馬像が撤去される事態となった。
 このあたりは小熊英二の『生きて帰ってきた男』にある、1937年頃から急に世の中がおかしくなった、という小熊氏の父親の証言に合致する。結局、日中戦争の勃発で、タテマエとしてあった「八紘一宇」、すなわち天皇の元に多民族が平等に暮らすという「大日本」観 (もちろんホンネでは大和民族ファーストであるのだが) が、もはやタテマエとしてすらも成立しなくなってしまった、ということがあったのだろう。それが日本社会の急変を招いたのであったと思う。「八紘一宇」がもはや公共性を追求する理念性を失い、単なる大和民族による世界征服になってしまったのだ。

 このような経緯から、台湾中研院台湾史研究所の翁佳音教授は「呉鳳伝説の大部分は日本統治時代に作られ完成された」と見ており、陳其南教授は呉鳳伝説は「捏造的神話」と断ずる。

 一方、1945年、中国復帰後の台湾では嘉義市長は呉鳳の子孫にあった後、呉鳳の事績は伝説ではなく事実だと強調、また国民党政府も呉鳳の身を捨てて公のために役立つという公務員精神宣揚のため、呉鳳を顕彰した。さらに、呉鳳のエピソードは教科書に取り入れられ、通りや学校の名前にも使われ、映画化もされた。

 この呉鳳神話に初めて疑問を投げかけたのが、1980年に発表された陳其南教授の「一側捏造的神話−呉鳳」という論文であり、その後多くの論争が起こった。1984年には左右の原住民の民族運動が起こり、呉鳳神話は原住民の姿を歪曲するものであり、原住民が自らの歴史解釈する権利を奪うものであるという批判も起こる。さらに呉鳳は悪徳商人であり、原住民が呉鳳を殺害したのは、それに対する抵抗運動であるという説さえ唱えられる。
 これらを受けて台湾教育部は1988年、呉鳳のエピソードを教科書から削除、さらに同年12月31日には林宗正牧師率いる原住民数名が嘉義駅前にあった呉鳳像を電動鋸で切断するという事件まで起こしたという。
 その後も呉鳳支持派、反対派双方からの様々なトラブルが相次ぎ、翌年3月1日には、内政部は呉鳳郷を元の名の阿里山郷に戻すことを決定したという。

 おそらく、少なくとも事実として言えそうなのは、原住民は呉鳳という中国人を殺した。そして、その後原住民の部落に何らかの厄災 (疫病か?) が降りかかり、彼らはそれを、どういう事情かは分からないが、呉鳳の祟りだと思いこみ、恐れ、彼を祭って出草を取りやめた、というあたりだったのだろう。

 なお、呉鳳伝説に関してはWeb上にこんな文章もあった。

「呉鳳という伝説」 野林厚志 国立民族博物館 2014.4
http://www.minpaku.ac.jp/museum/showcase/media/tabiiroiro/chikyujin240

「教科書の中の原住民・呉鳳の物語」 阿川亭 (台湾東海大学 古川ちかし[阿川]氏のページ) 2005.10.4
http://web.thu.edu.tw/mike/www/class/Tainichi/data/ufon.html


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