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zoom RSS 「かけがえのなさ」への自覚と映画『そして父になる』

<<   作成日時 : 2014/11/29 00:58   >>

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 今さら紹介する必要もないであろう、カンヌ映画祭審査員特別賞受賞作。

 この作品、以前紹介したスペイン映画『El Bola』と共通する部分がある。両者とも、一方は一見規範に則った正しい家族と、もう一方はいい加減に見える家族が登場し、その二つの家族が対比される。その結果、だが実は世間の規範に沿わないいい加減に見えた家族の方が人間味があって問題点が少ない、というのも共通だ。

 福山雅治演じる野々宮良多の一家。こちらは都内の一流企業に勤め、住まいは都内の高級高層マンション。生活水準も比較的高く、子供を私立の小学校に入れようとしており、妻みどりも子供の教育をしっかりしている。おそらくアベノミクスの恩恵を真っ先に受けそうな層である。
 もう一方は高崎でしがない電気店を営むリリー・フランキーと真木よう子演じる斎木雄大とゆかり一家。おそらく家電量販店に押されて売り上げは落ちており、店の外装もはげかけてはいるが、ちゃんと直せない。妻ゆかりはたばこスパスパ。旦那は風采は上がらないし、おそらく学歴もそんなに高くない。アベノミクスの恩恵どころか、円安や物価高になれば、今や輸入品ばかりの家電製品の値段は上がる一方、顧客層の実質所得は下がり、そのとばっちりしか受けないであろう層だ。

 そんな中、子供の取り違えが発覚する。仕事が順調で楽しく休日出勤も多い良多にとって、実は子供と接している時間はそれほど長くない。それでも「お父さんみたいになりたい」と慕ってくれる息子の慶多はそれなりにかわいい一方、自分の息子にふがいない面も感じていた。
 その彼の目から見ると、電器屋の斎木一家は所得水準が低いせいか、妙に金に汚い。その割にはこどもの教育に金を使ってくれるようにも見えない。慶多を手放せないと嘆く妻がいる一方で、自分の血を引く琉星を、電器屋一家に任していて良いのかとも思う。そして、子供を交換さえすればすべて解決する、と言わんばかりの病院側の態度に、割り切れないものを感じる妻も理解できたし、自分も疑問を感じていた。そんな中、彼は慶多も琉星も二人とも引き取るという方向性を考えた。電器屋一家の金への執着から、最後は「金目」でしょ、と判断した訳だ。

 子供の試験交換をすれば病院の思惑通りになると難色を示す妻を尻目に、良多は病院の提案にいったんは乗る。そして慶多にこれはミッションなんだ、向こうの家に行ってパパとママと呼んでみるんだと言い含める。とても「よい子」に育った慶多は、おそらく不満や不安を感じていたであろうが、パパの言いつけを、何も文句を言わずに良く守る。野々宮家に一時的に滞在した琉星も、とりあえずは新しい環境に興奮したようではあった。慶多も子供とよく遊んでくれ、おもちゃの修理もしてくれる「新しいパパ」にそこそこ親しみを感じているようだ。

 だが、「金目」で解決すると踏んだ電器屋一家は意外に「金では買えないものがある」と正論でしぶとく対抗してきた。結局病院の思惑通り交換で決着を図るしかなくなる。

 だが、交換で決着を図ることになったとたん、いままで「これでよい、これで正しい」と思ってきた良多に突きつけられたものは、自分の父親力の決定的な不足である。琉星は自分を「お父さん」とは呼んでくれたものの決して彼の「パパ」にはなれないことを突きつけられる。そして慶多も今までは「パパのいいつけ」だから我慢していたのだが、「新しいパパ」の父親力に接するうちに、自分のパパは自分を捨てたのだと実感する。そして電器屋一家に「何でしたらうちが二人とも引き取ってもいいんですよ」とまで言われてしまう事態に至って、初めて良多は、自分が常に正しく、今まで慶多を「養ってやってやる」と思っていたが、実は慶多だからこそ今まで父親力の不足していた自分を、「父親」として容認していてくれたことを知る。

 言うならば、良多は、自分「だけ」がかけがえのない存在、他人と代替不能な存在であった(という思いこみがあった)からこそ、自分が「正しい」と確信してきた。一方で他人を常に誰かと代替可能な存在として見てきていた。それは息子に対しても、あるいは部下に対しても。もちろん良多が息子さえも代替可能な存在と見ていたのは、息子と過ごす絶対時間が少ないせいもある。
 だが、自分が父親として比較されうる存在、代替可能な存在に転落することで(そして上司から宇都宮転勤を勧められ、かけがえのないものであったと思っていた自分の会社での存在がそうでないと知ったとき - とはいえ上司が宇都宮転勤を勧めたのは悪意ではなく、良多の家庭事情を思いやったからだとは思うが -)、初めて、過去、慶多が自分をかけがえのない存在として見てくれていたこと、そしてそれ故慶多がかけがえのない存在だったことを改めて知ったのだ。

 人は血のつながりを重視する。それは血のつながりというものが、他と代替することのできないかけがえのないものであるからだが、多くの場合それは自覚されていない。単に血のつながりだから大切、とお題目のように信じられているだけだ。その延長には、病院側のように、血のつながりのある側に交換しておけばとりあえず間違いない、という機械的判断が存在する。そして良多もそうだった。
 だが、かけがえのなさは血だけではない。血が重要なのか、かけがえのなさが重要なのかと問われれば、かけがえのなさこそより原理的なものなのだ。そして父子関係とはかけがえのない関係だということを知ったとき、はじめて良多は父になる資格ができたのだった。同時に、それは自分もそのような窮する立場に陥らない限り、つまり頭だけでは知ることは困難ということも示唆していると思う。

 本作品は、『El Bola』と比べると、良多が自分の「正しさ」の怪しさに気づくことが大きな救いになっている。だが、『El Bola』の中で描かれた、このような「正しさ」は、児童虐待や社会的不寛容と排除さらにはファシズムとも通底するものがあるという指摘も、また重要であろう。

原題『そして父になる』 英題『Like Father, Like Son』 監督:是枝裕和
2013年 日本映画 カラー 1:1.85 121分


スペイン映画 『El Bola』映画評
http://yohnishi.at.webry.info/201001/article_10.html

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